碧 水 の 謂 れ | ||||
碧水の初代は<祖父の漢詩を発表した時の号である。ついで父が二代目の碧水としてペンネームに使っており、自分で三代目となる。 初代碧水は酒田36人衆の流れを組む松田家の分家の商家に生まれた。その分家は代々松田長蔵を名乗り、その名を襲名していたが、明治に至り姓を屋号(○○谷)に変えて別姓になった。初代碧水は明治9年廻船問屋の長男として生まれた。尋常小学校を卒業すると同時に同業者に丁稚奉公に出されその後北海道に渡ったようだ。自分が好きな学問を出来なかった分、弟にはこれからの世は学問が大事とばかり鶴岡中学そして早稲田大学にまで行かせた。やがて5年の奉公があけて家業に専念するも旧態依然の廻船問屋をスッパリと止め、別業種に転業を図った。水運、海運の衰退は、鉄道開通で大量で直迅速な運搬が可能であったから当然の事であった。地元は昔から日本を代表する稲作地帯であったので、漁業に使用する藁工品をはじめ三陸海岸に販路を開拓し、これが当たり北海道、樺太、焼津、九十九里浜、長崎にまで販路を広げる様になった。盛期には長崎を足がかりに朝鮮にまで進出したと云う。 若い頃から学問好きであった初代碧水は、奉公をしながら本を読み漁り独学で勉強をした。仕事に精を出す傍ら二十歳を過ぎた頃、同志を集め荘内文学界を結成し文学活動を始めた。子飼の丁稚小僧が成長し一人前の番頭として仕事をを任せられるようになると推されて商工会の理事、町会議員を経て県会議員になった。そんな多忙な傍ら書を学び、漢学者であった須田古龍先生に出会った。須田古龍氏は先祖は象潟の人であったが、父は羽後酒田に移住し、神医と云われた人物である。その父より幼くして漢学を習い、中学を秀才で卒業しわずか19歳にて一家を成した人物である。母が明治維新の志士で暗殺された清川八郎と縁故あり、清川八郎の事跡調査研究を生涯費やしたと云う。其の甲斐あって宮内庁より、明治維新の志士の最高の正四位を受けた。そんな師に出会い、初代碧水は生涯を師と仰いだ。 須田古龍氏との出会いにより、以前より詩作に耽っていた碧水はきっぱりと止め専ら漢詩を作るようになった。漢詩は古体詩と新体詩とがあるが、特に新体詩を得意とした。やがて須田古龍氏のみならず東京の漢詩を作る諸先生方と親しくなり、批評を貰うようになる。芸文社を主催する土屋竹雨が全国から募集した「昭和七百家絶句」の中に七句が選ばれ載せているが、全国の中で七句も入っていたのは異例であったと云われている。 父は昭和21年に祖父が亡くなると名前を襲名した。その後何か文を書く事に迫られるとペンネームとして碧水の号を使うようになった。碧水とは「青い澄み切った水」と云う事である。転化して「心情にいささかも曇りのない」と云う事を云っていると聞かされた。 荘内人名辞典には経歴しか載っていないが、酒田市人名辞典には「町会議員、市会議員、県会議員を務め地方の発展に努めた。漢詩と書道に長じ碧水と号し、古龍翁に就いて漢詩を良くした。直情径行、竹を割ったような性格であった。」とある。子供の頃の想い出としては怖い爺としてしか覚えていない。自分にとっては怖い頑固一徹の爺ではあったが、当時を知る人に聞くと人を信用すればとことん応援をし、初志を貫徹するが一度敵に回すととても怖い存在であったと聞かされた。号を「碧水」また「碧水漁人」とも云う。 そんな意味を含め、先祖にあやかりたく、ちゃっかり自分の号に貰ってしまった次第である。碧水の初代から数え三代目である。故に「三代目碧水」をペンネームにしている。 |
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「碧水詩集」の中で自分が好きな四言絶句
「酒田八勝」より
日 和 山 夕 照 | 日和山の夕照 | ||
碧 水 |
山枕江流對海門 | 山は江の流れを枕にし、海門に対す | ||||
鳥海山 最上川 河口(日本海) | |||||
風生潮湧白帆奔 | 風は生じ潮は湧き、白帆奔る | ||||
当時は帆前船が主流 | |||||
放眸天水相連処 | 眸を放てば 天水相連なる処 | ||||
ひとみ | |||||
飛島浮波一鶻翻 | 飛島波に浮かび一鶻翻る | ||||
いっこつ=隼が一羽 |
鳥 海 山 晴 雪 | 鳥 海 山 の 晴 雪 | ||
碧 水 | |||
羽北名山第一峰
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羽北の名山の第一峰 | ||||
出羽国(羽前国、羽後国) | |||||
高寒一気秀霊錘 | 高寒一気秀霊錘まる | ||||
あつ | |||||
夕陽映発皚々雪 | 夕陽映発す皚々の雪 | ||||
がいがい | |||||
畫出玲瓏八朶蓉 | 畫出す玲瓏八朶の蓉 | ||||
画き出す れいろうはちだのよう |